海神の総本社・龍の都志賀海神社

古来より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓によってご出生された綿津見三神を奉祭しています。

御祭新について

左殿 仲津綿津見神 中殿 底津綿津見神 右殿 表津綿津見神
ご祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神です。海上交通の安全をはじめ潮、魚介類といった海産物のお恵みをもたらす神と信仰され、また禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と潮を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされています。

◆御神徳

海上守護、交通安全、再生回帰の神、災厄祓除、病気平癒
健康長寿、家内安全、子供守護

志賀海神社の歴史

志賀海神社の創建は明らかではありませんが、古くは志賀島北部の勝馬に「表津宮」「仲津宮」「沖津宮」の三社が建てられ、それぞれ「表津綿津見神」「仲津綿津見神」「底津綿津見神」が祀られていました。 二世紀から四世紀の間に表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座し、併せて仲津綿津見神、表津綿津見神が奉祀されたと伝えられています。綿津見三神を祖神とする阿曇族が代々奉斎してきました。
平城天皇の大同元年(八〇六年)に阿曇神に神封八戸が寄進され、清和天皇の貞観元年(八五九年)に従五位上の神階が授けられました。南北朝の頃には衰微しましたが、大内持世が再興し、さらに豊臣秀吉が50石を寄進しています。 小早川隆景、黒田長政なども崇敬していました。

志賀島に残る数々の神功皇后伝説

神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。
志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。
阿曇磯良を海国から召し出そうと7日7晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。

亀石

その昔、神功皇后が三韓へ出兵される際、正面対岸の打昇浜にある亀ヶ池亀生池の辺りにて無事凱旋できるよう阿曇磯良丸を通じ祈願され七日七夜の神楽を奏されました。すると黄金の雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が出現され皇后に千珠万珠の玉を授け船の舵と航路を守り導いたえと伝えられ、黄金雌雄の亀は亀ヶ池亀生池に放たれましたが後に石となって現在の金印公園近くに現れ寛文10年(1671)4月11日に社前に納められました。

事無き柴

その昔、神功皇后は三韓出兵の際、志賀海神社にて無事成功の祈願をされました。事無く凱旋帰国できた皇后は大変喜ばれ、そのお礼の祭典を奉仕し、椎の木でできた船の舵の柄を境内、勝山の山中へと挿し立て奉納されました。後にこの舵の柄より芽吹いた葉を「事無き柴」と称え、外出の際にひと葉を懐にすれば、事(災難)無く我が家に還る事ができると言い伝えられています。神社だけでなく志賀島の神事などには榊ではなく椎(柴)を用いています。

鹿角堂

その昔、神功皇后は三韓出兵の際、志賀海神社にて無事成功の祈願をされました。事無く凱旋帰国できた皇后は大変喜ばれ、そのお礼の祭典を奉仕し、椎の木でできた船の舵の柄を境内、勝山の山中へと挿し立て奉納されました。後にこの舵の柄より芽吹いた葉を「事無き柴」と称え、外出の際にひと葉を懐にすれば、事(災難)無く我が家に還る事ができると言い伝えられています。神社だけでなく志賀島の神事などには榊ではなく椎(柴)を用いています。